赤いギターと白い雲
ベンチャーズとともに駆け抜けた青春

       4.気まぐれベンチャーズ・ライフ

 1967年の春が来て、秀は小学校5年生となった。あれほど衝撃を受けたベンチャーズではあったが、そこは子供の事、それだけにのめり込む事はなく、江戸川乱歩の「少年探偵団シリーズ」や「講談社刊少年少女世界科学名作」に夢中になったり、野球をやったり、漫画を描いたり、あるいはゲーム「バンカース」に興じたりと、気まぐれに日々を楽しんでいた。

 音楽的には、相変わらず6歳年上の兄の影響が絶大であった。
 高校生になってから、急激に流行に対する敏感さと、取り入れる物を選ぶセンスを身に付けた兄は、秀にとって身近でありながら、神様のような存在であった。
 この頃兄のレコード・コレクションには、様々なアーチストのLPも加わっていて、レーモン・ルフェーブル・オーケストラやビートルズ、映画音楽からカンツォーネまで、実に幅広い範囲にわたっていた。
 何より楽しみだったのは、兄が選局するラジオの音楽番組を、横で聴くことだった。特に洋曲のベスト・テン番組で、ベンチャーズがランク・インしていたりすると、理屈抜きでうれしかった。
 ベンチャーズ以外にも、フランス・ギャルの「そよ風に乗って」や、ウォーカー・ブラザースの「孤独の太陽」などが、印象に残っている。
 ビートルズもそれなりに注目はしたが、子供心にベンチャーズと悪い意味で対比させられるのに気分を害し、今ひとつ素直に聴けなかった。心の奥底では、やはり「ベンチャーズが一番」という意識があったのだろう。

 ギターは時々弾いていて、それなりに少しは上達していたし、地元の商店街のレコード屋を冷やかしに行っては、ベンチャーズのレコードのジャケットを眺めたりもしていたのだが。

 また、時おり、当時としては、まだまだ貴重な「ステレオ・セット」のある桜木直人というクラスメートの家へ行って、「ベンチャーズ・イン・ジャパン」を聴かせてもらうのも、ちょっとした楽しみだった。
 ベンチャーズの演奏そのものよりも、おかしな日本語と英語をゴチャ混ぜにしてしゃべる司会者が「シンハツバイ」というところが、一番のお気に入りであった。
 ジャケットの演奏時間表記で、キャラバンの「7’49”」と書いてあるのを見て、ただただ単純に「凄い!」と思ったりもした。

 秀自身のレコード・コレクションには、ベンチャーズに限らず、LP盤のレコードという物が存在しなかった。
 当時「ステレオ・セット」の置いてある家は、まだまだ少なく、秀の家も例に漏れず「ポータブル・プレーヤー」と呼ばれた小型のレコード・プレーヤーを使っていた。
 ポータブル・プレーヤーは、ターン・テーブルがシングル盤の大きさしかなく、LPレコードを乗せると、レコードの方が大きくはみ出してしまい、きわめて不安定で不恰好な様だった。

 そんな理由と、一般的にLPがまだまだ高価な物、という概念から、秀のレコード・コレクションは、もっぱらシングル盤と、4曲入りのコンパクト盤に偏っていたのである。

 その数少ないライブラリーの中に、ライヴ・テイクの「ペダル・プッシャー」「星への旅路」「キャラバン’65」の3曲入りの、コンパクト盤があった。

 
        

 演奏以上に、客席の声援の凄さが印象的なテイクであったが、本来片面に2曲入るはずのレコードの片面を、1曲で占領してしまった「キャラバン」の、5分以上にわたる演奏時間に、秀は訳もなく「凄さ」を感じていた。

 ところが、「ライヴ・イン・ジャパン」の「キャラバン」の演奏時間は、さらにそれを上回るものであったので、「ダイアモンド・ヘッド」や「パイプライン」の2分台の演奏時間を見慣れていた少年にとって、クラシックの大作に匹敵するようなイメージを抱かせてしまうのであった。

 蛇足として、この当時のレコード・プレーヤーは、どんな安物でも「SP盤対応」であった。
 つまり、回転数を「33、45、78」の三種類から選べるのである。
 LP盤やシングル盤を、78回転で聴くときの面白さは、また格別であった。
 ただ単に「テープの早回し」状態になるだけなのだが、こんな単純な事で喜べる時代でもあったのだ。

 しばらく後、フォーク・クルセイダーズの「帰ってきたヨッパライ」(♪オラは死んじまったダ〜♪)が大ヒットした時、あの「テープ早回し状態」の歌を、逆に33回転で聴いて「わっ、普通の声で歌っている!」と感激したのは、言うまでもない。

          ∽∽∽ 続く ∽∽∽

           

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