第5章 白雲編

         36.流れ行く雲(5)

 3月も末になって、秀と丈、浩二、次郎は、T.A.D.の活動に区切りをつけるべく、ブラスバンド部の許可を得て、練習室に集まった。
 実際にはもう卒業してしまったが、高校生活最後のバンド演奏を楽しむためである。
 この日も文通友達の大林俊雄さんと神島常一さんを招いたが、前回の写真撮影の時のような、凝った事は何もせず、ただアンプとドラムをセットしただけで、ひたすら演奏を楽しむ事にしていた。
 秀はもちろん赤いテレキャスターを持って行った。
 浩二はアーム付きのSG、次郎はバイオリン・ベース。全員、弦を新しいのに張り替えていた。
 丈が収まるドラム・セットは、卒業後もしばらく後輩のために置いておくらしい。
「今日は曲目表も何も用意してないよ。」
 音さを使ってチューニングしながら秀が言うと、浩二が、
「そんなものなくたって、全部頭に入ってるだろう。」
と、アームを上下させて弦を馴染ませながら答える。
 次郎がベース・アンプのツマミを調整しながら、
「今日は久々にクルーエル・シーからやろうぜ。」
と言えば、丈が横で、
「いいね、いいね。’72年で行こうか、それとも’73年にするか?」
とスティックをジョー・バリルのように指でクルクル回しながら笑う。
 このあたりの呼吸は、もう何十年も一緒にバンドを組んでいるメンバー同志のようであった。
 四人でひとしきり演奏した後は、大林さんや神島さんにもギターを弾いてもらい、なごやかで楽しいセッションのひとときを共有しあった。
 二次会として食事に行った時、
「このバンドは、みんな大学に行くようになっても続けるんですか?」
と大林さんが問いかけたが、誰も明確に答えられる者はいなかった。
「さあ・・・。やるとしても、定期的な活動は難しいでしょうねえ。」
 そう答えながら、秀は言い知れぬ淋しさと、激しい虚脱感に捕われていた。
「卒業」
 この二文字は、終止符とは言わないまでも、T.A.D.というバンドに、確実に一つの区切りをつけたのである。

 四月に入ってからすぐのある日、秀は渋山ゆりと千葉県房総の海岸にいた。
 お互いの入試が終わった後、何度となく会ってはいたが、大学入学前に、ちょっと遠出をして、海を見に行こうという事になったのだ。
 砂浜でひとしきり遊んだ後、海の見える喫茶店で食事をしながら話をした。
 ゆりは千葉方面にある短大の英文科に合格していた。卒業後、どんな職業につくのかは、秀と同様、混沌として決まっていないようだ。
 食事を終えた秀とゆりは、再び砂浜に出た。
 二人は波打ち際まで来ると、立ち止まった。
 春先によくある、風の強い日だった。秀は舞い上がる砂埃からゆりを守るように、風上に立って、彼女の肩を抱いた。
 お互い、何も言わずに水平線を眺めていたが、しばらくして秀がふと、
「海の向こうに・・・。」
とつぶやいた。ゆりはよく聞き取れなかったので、
「え?」
と秀の顔を見た。秀は遠くを見つめたまま、
「海の向こうに、ベンチャーズがいるんだよね。」
と言った。ゆりは、
「まあ・・・・・。」
という表情になって、いたずらっぽく微笑みながら、
「そうね。今年の夏もまた来るんでしょう。今頃、アメリカで一生懸命練習しているかもしれないわね。」
と優しく秀に合わせた。
 秀の頭の中に、今年の来日ツアーに向けてリハーサルをするベンチャーズのメンバー一人一人の姿が、くっきりと浮かんでくるのであった。

「雲がすごい速さで流れていくわ。」
 ゆりが水平線の上空を指さして言った。
「ほんとだね。」
 秀は、白い雲が形を変えながら風に流されていくのを見て、
「まるで走馬灯のようだ。」
と思った。
 高校の三年間、過ぎてみればあっという間だったが、数え切れないほどの思い出がつまっている。流れ行く雲のまぶしい白さは、その思い出の一つ一つを、明確に思い出させてくれた。
 初めてエレキ・ギターを買いに行った日、駿河台のビルの谷間に見えた白い雲。
 初めてベンチャーズのコンサートを見に行った時、郵便貯金ホールの向こうに見えた白い雲。
 ゆりに「好きだ」と告げられずに悶々としながら、子供の頃に遊んだ公園のブランコに腰掛けて見た、白い雲。
 松戸市民会館で、ノーキーにサインをもらった日の、焼け付くような日差しの中で見上げた、白い雲。
 数え上げればきりがない、丈、浩二、次郎とともに見たはずの白い雲。
 その一つ一つを、きっと秀は一生忘れる事ができないだろう。


       ---------- 完 ----------

             


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