第5章 白雲編

         26.赤い記念碑(1)

 11月上旬になって、1974年の秋も深まりつつあった。
 秀はすでに退院し、自宅で療養していた。
 手術後の回復は順調だった。もう2、3日もすれば、日常生活する程度の体力も戻り、高校に通学できるようになるだろう。
 秀は病院から家に戻ると、最初にグレコの赤いテレキャスターをハード・ケースから取り出した。
 高校一年の初夏に、生まれて初めてエレキ・ギターを買って以来、一ヵ月以上も弾かないでいることはなかった。
 手術後、日に日に体力が回復するのを実感するとともに、ギターを弾きたいという欲求が、自然にこみあげてきていた。病院のベッドで我慢できず、お見舞いにもらったお菓子の缶に、輪ゴムを何本も引っ掛けて調弦し、琴のようにして弾いた事もあった。
 そういう経緯を経て再会した赤いテレキャスターは、久々に顔を合わせる秀に、懐かしそうに微笑みかけているようだった。
 というよりは、秀の方が赤いテレキャスターを恋しくてしかたなかったのだ。
 思えばこのテレキャスターも、アルバイトをしたり、高いお金をかけて再塗装したりと、苦労して手に入れた割には、去年の秋の文化祭以来、全然可愛がっていない。
 ダイナミックスのジェリー・マギーを客席最前列で見てしまったのと、レスポールというギターの甘くて太い音に、秀の中ではテレキャスターが負けてしまっていたのであった。
 だが今年の8月に松戸で、ノーキーが赤いテレキャスターを弾く姿を改めて見て、秀の胸に熱く燃える情熱が、再び蘇った。高校1年の夏、テレビで5年ぶりに復活したノーキーを偶然目にした、あの時の感激を思い出したのである。
 ところが、もはや秀は受験生活に入っていた上に、入院、手術というアクシデントまで重なって、テレキャスターに対する情熱を行動に変えられず、ずっとくすぶった状態になっていた。
 秀は、イスに腰掛けてテレキャスターを抱えると、右手にサム・ピックをはめて、今年のノーキーのスタイルで「ワイルドで行こう」や「ラ・バンバ」その他を弾いた。
 秀が入院していた10月中に、ベンチャーズの今年の実況録音盤「オン・ステージ’74」がリリースされており、丈が買ってすぐにカセットに落として届けてくれていた。

      

 それを、病室のベッドの上で、もう耳にタコができるぐらいイヤホーンで聴いたので、曲順から河野嘉之氏のMCのセリフまで、ほとんど暗記に近い状態で把握してしまった。
 しかし、さすがにノーキーのフレーズだけは、記憶だけでは指先の動きに反映されない。
 それでも何曲かは「こんな感じだったよな」程度のプレイを楽しむ事ができた。
「高校に通っている間に、なんとか赤いテレキャスターで、もう一度だけ思い出を作っておきたい。」
 秀は心の底からそう思った。
 だが、この時期になって、もはやコンサートをやる余裕はない。コンサートをやるには、相当の個人練習と、バンド全体のリハーサルが必要だ。
 秀はテレキャスターを爪弾きながら、ずっと思い出作りの方法を考えていた。
 そして、ある計画を思いついた。しかしそれは、T.A.D.の他のメンバーの賛同を得なければならないものだった。
 秀は自宅療養が終わって登校したら、その日のうちに、丈や浩二、次郎にその計画を話そうと決意した。


             


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