第5章 白雲編

         22.凍るテレキャスター(1)

 ベンチャーズ日比谷野外音楽堂公演から一週間ほどして、秀は退院した。
 幸いに胸壁内部の空気が抜けると、肺は元の形状を保っていたので、手術はしないですんだ。
 ただ、再発の恐れがあるので、油断は禁物という事であった。

 退院して家に帰ってみると、渋山ゆりからの手紙が届いていた。
 秀は退院の2日前にゆりに手紙を出して、初めて入院についての報告をしたのだ。
 予想していた事だが、ゆりには手紙の中でかなり強い表現で怒られてしまった。秀は冷や汗をかきながら、淡い水色の便箋にしたためられたゆりの文字を追っていたが、最後には優しい言葉で、
「無理しないように気をつけてね、お大事に。」
などと書かれてあったので、少しはほっとしたのであった。

 ところで、ベンチャーズ日比谷野外音楽堂(正式には野外大音楽堂というらしいが)公演のの日、文通相手の大林俊雄さんがノーキーの最新ソロ・アルバム「キング・オブ・ギター」をお見舞いに持って来てくれたのであったが、丈がそれをすぐにテープにダビングして持って来てくれた。
 またテープのB面には、次郎がダイナミックスのアルバム「ロール・オーバー・ベートーベン」をいれてくれていた。
 この2作には、どちらも「幸せの黄色いリボン」が収められていて、否が応でもノーキーとジェリーを対比させて聴きたくなる組み合わせである。
 秀は病院のベッドでイヤホーンを使って、何度も繰り返してそのテープを聴いた。
 どちらが上、というものは秀の中ではあり得ない。「インストルメンタル」として完成度の高いノーキーと「ロック、ポップス」の味わいが素晴らしいジェリー、それぞれの特色あるギター・プレイを堪能したのであった。

       

 さて、退院して2日ほど自宅療養した秀は、9月の下旬から再び登校をはじめた。
 3週間近くぶりの教室で、久々にクラス・メートと顔を合わせるのは、とても新鮮な感じがした。
 いつの間にか席替えがなされており、秀の席は丈と隣り合わせではあったが、事もあろうに教壇の正面の最前列であった。ベンチャーズのコンサートを見るのなら、最前列の真ん中は大歓迎なのだが、教室の最前列にはちょっと閉口してしまう。しかし、
「どうせ俺たちは家でたいして勉強なんかしないんだから、せめて授業中ぐらいは逃げ場のない状況に身を置かないといかんと思って、わざわざこの席を選んだんだ。」
という丈の説明を受けると、それはそれで、妙に納得してしまう秀であった。
 半月以上授業を休んだにもかかわらず、それほど影響を感じなかったのは、いかに秀がそれまで勉強をサボりすぎていたかを、逆に物語っていた。つまり、授業を聞いていてもさっぱりわからないのに変わりはなかった、という事だ。
 医師の指示で、体育の授業は見学していたし、登校するのにも自転車は使わずにバスで通っていたが、日常の生活をするのには、まったく問題はなかった。

 ところで、秀にはベンチャーズの他にもう一つ夢中になっているものがあった。
 小学校卒業前あたりから興味をもったボクシングである。中学に入ってから毎月買い始めたボクシング雑誌は、ベンチャーズに熱中してからも買い続けていたし、世界タイトルマッチの時はテレビ放送をテープ・レコーダーで録音したり、翌日のスポーツ新聞を柏駅の売店で全紙買い揃えてスクラップしたりするだけの情熱を保っていた。
 ことさらボクシング・ジムに通ったりするような事はしなかったが、中学生の時に陸上部で長距離を走っていたのも、ロード・ワークがわりのつもりだったのだ。
 家でも気が向くと、シャドー・ボクシングの真似事などをして遊んだりしていた。
 退院して1週間もたつと、徐々に体力が戻ってきて、受験勉強による鬱憤もたまったりして、少々体を動かしたくなってきたのだが、これが間違いの元であった。
 10月に入ってすぐのある夜、秀は参考書や問題集を広げた机の前から立ち上がり、おもむろにシャドー・ボクシングを始めた。
 オーソドックス・スタイルでの、左ジャブから右ストレート、左フックに右アッパーなどと、コンビネーション・ブローを放っては、仮想の相手の反撃をウィービングやスウェー・バックでかわしたりして、3分ほど体を動かしていただろうか。さらに、とどめの右ストレートを繰り出した時、右の胸に「バシッ」という鈍い衝撃を感じた。
 気のせいかな、と思い込もうとしたが、数分もすると、一ヶ月前のあの「いやな感じ」が胸部にジワジワと押し寄せてきた。
 心臓の動悸が激しくなり、息が苦しい。
 秀は「またやった」と思った。

             


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