第5章 白雲編

         19.眠るテレキャスター(6)

 入院後、秀はトイレに行く時以外はベッドに横たわったままの、単調で退屈な日々を過ごしていた。
 空気吸出しポンプは、体に急激な衝撃を及ぼさないように、ごく微量ずつ、秀の胸壁内に溜まった空気を吸い出していく。そのおかげで肺は少しずつ膨らんで、2、3日で呼吸はほとんど普段と変わりなくできるようになっていた。
 丈が持って来てくれたカセットを聴く以外にはすることもなく、しかたなく新たに大学入試の選択科目に決めた、世界史の年号や、英語の単語、熟語等を覚えたりして暇をつぶした。

 そんな中で唯一の楽しみは、丈がほとんど毎日のようにお見舞いに顔を出してくれる事であった。
 柏から飯田橋までは「ちょっとそこまで」というような距離ではないはずなのだが、丈は放課後、せっせと通ってくれて、夕方から夕食までの2時間ほどを秀のベッドの横で過ごした。
 2日に1度顔を見せる母親よりも来る回数が多いので、隣りのベッドのおじさんに、
「君たちは兄弟なのかい?」
と聞かれたほどであった。
 秀としては、丈のお見舞いはうれしくもあり、ありがたくもあったが、同じ受験生の身である事が気になる。
「おい、こんなところに毎日来てる場合じゃないだろう。」
 秀の言葉にも丈は、
「いや、英語の単語ぐらいは行き帰りの電車の中で覚えられるしさ。かえって、家で机に向かっているより、はかどるんだよ。」
と笑って取り合わない。
 浩二や次郎も、時々丈と一緒に顔を出してくれた。バンド仲間との語らいは、やはり秀にとって一番の良薬であった。

 一方で、秀は渋山ゆりには連絡できないでいた。おそらく手紙でも電話でも「入院している」と一言伝えれば、ゆりはすぐに飛んで来てくれるだろう。
 しかし、わざわざ連絡するのは「お見舞いに来てくれ」と催促するようで、ちょっとためらってしまうのであった。
 それと、ベッドに寝たきりで、空気吸出しポンプと管で繋がれている無様な姿を、ゆりに見られたくない、という気持ちもある。
 夏休みにちょっとだけ、ゆりとの仲が進展したとはいえ、まだまだ秀の中に遠慮があった。同じ高校にでも通っていて、普段から身近にいるのなら、また状況も違うであろうが、長距離とまではいかなくとも、中距離恋愛ぐらいの壁が、秀とゆりの間には存在しているのであった。

 入院生活も1週間以上過ぎ、いよいよベンチャーズの日比谷野外音楽堂公演の当日となった。
 1974年9月16日、敬老の日の振替休日であるその日は、朝からどんよりとした天気であった。いつ雨が降り出してもおかしくない空模様である。
 秀はベッドから窓の外を見て、
「野外コンサートなのに、天気が悪いなあ。」
と心配した。心配したところで、自分が行けるわけではないのだが。
 その後、霧雨が降ったり止んだりの状態のまま、午後になった。コンサートの開演は、夕方の4時である。医師の許可が出るはずもないが、空気吸出しポンプと点滴のスタンドに繋がれたままでいいから、外出許可をもらって、日比谷に駆けつけたい気持ちであった。
「ちきしょう、行きたいなあ・・・。」
 唇をかんで悔しさを押さえる秀であったが、2時半ごろになって、5人の若者が病室に入ってくるのが見えた。
 先頭には丈がいつもの笑顔を見せていて、その後ろから浩二と次郎が片手を上げて入ってくる。
「いよう、虹、具合はどうだ?」
 後の二人は見知らぬ青年だった。だが、秀にはそのうちの一人が誰であるか、すぐにわかった。

             


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