第5章 白雲編

         13.サマー・ブリーズ(5)

 二人は西大島でバスを降りると、新大橋通りを平井方面に向かって歩き出した。
 そのまま真直ぐ行けば、大島1丁目から2丁目、3丁目と通り過ぎ、やがて秀とゆりが住んでいた6丁目に至る。
 天気がよく暑い日だったので、ちょっと歩いただけで滝のように汗が出た。ゆりもハンカチで頻繁に額や鼻のあたりを拭いている。
 二人が通っていた中学校を覗いた後、すぐ向かいの高層団地内の公園にある喫茶店に入って、一休みすることにした。
「俺はコーラにしよう。ゆりちゃんは?」
「ちょっとスカッとした物がのみたいわ。私もコーラにしようっと。」
 もう夕方近くなっていたとはいえ、8月中旬の午後は、ひたすら暑かった。アスファルトやコンクリートに囲まれた高層団地の公園内ではあるが、あちこちでセミの鳴き声が響いている。
 とりとめのない会話の中で、時々ゆりは秀に合わせてベンチャーズの話題を振ってくる。
「秀ちゃんって、ベンチャーズの曲の中ではどの曲が一番好きなの?それだけ詳しいと、私なんか知らない曲なんでしょうね。」
「うーん、一つだけ選ぶのはむずかしいね。有名な曲の中では、やっぱり十番街の殺人かな。」
「ああ、それなら、私も大好き。」
「そんなに一般的に有名じゃない曲では、涙のギターとか、クラシカル・ガスとか。」
 秀は、つい先日松戸で見た今年のコンサートで聴いた曲名を挙げていた。本当は、
「曲そのものより、フレーズだね。’72年のノーキーのプラウド・メアリーの3回目のソロとか、’73年のカリフォルニア・ドリーミンのオブリガートなんか、最高なんだよ。」
などと格好をつけたいところなのだが、ゆりの大きな瞳が点になるのを見たくないのでやめた。
「ふうん、ベンチャーズも追求すると奥が深いのね。」
 そういうゆりの表情が、あきれたというよりは、感心した、という雰囲気なのが、また秀のハートをくすぐるのだった。

 一休みして涼んだ後、二人が卒業した小学校や中の橋の商店街を歩いて回ると、もう5時半を過ぎていた。夏至を2ヶ月近くも過ぎた8月中旬の太陽は、いつの間にかかなり西に傾いている。
 秀とゆりは中の橋商店街を通り抜けて左折し、亀戸駅に向かって帰路についた。
 途中、高速道路の高架下に、元々は川だったのを埋め立てて公園になっている場所があり、ベンチが目に入った。
「ちょっとだけ休んで行こうか。」
「そうね、ずいぶん歩いたもの。」
 二人並んで腰掛けて遠くを見渡すと、西の空が夕焼けになっていて、いくらか黄昏の気配があたりに漂いはじめている。
 夏の夕暮れの公園には、二人の他には誰もいなかった。秀もゆりも、言葉を交わすことなく黙っている。
 秀は前から機会があるごとに、ゆりに対して「好きだ」と口に出そうとしていたが、ずっと言い出せないでいた。
 そんな事をわざわざ言わなくても、お互いの気持ちは分かり合っているはずだった。
 だが、それを口に出すのと出さないのとでは、二人の間の距離感がまったく違うものになると、秀は思っていた。
「虹沢君がしっかりつかまえていないと、そのうちゆりを誰かに取られちゃうわよ。」
 去年の文化祭の時の、日野原ゆきえの言葉がふと思い浮かんだ。
 少しづつ夕闇の色が濃くなってきて、二人をやわらかく包み込んでいく。秀のすぐ横に、夕焼けの空を見つめているゆりの顔があった。
「ゆ、ゆりちゃん・・・。」
秀は胸の動悸と闘いながら、ゆりに話しかけた。
「ん、なあに?」
 ゆりが秀の方を向いた。
 その目、その唇が、秀の次の言葉と行動を待っているように思われた。
 もう、ここは後に引くべきではない、と秀は決意した。
「俺、小学校の時から、ゆりちゃんが好きだったんだ。」
 秀がついに言葉にすると、ゆりはちょっとはずかしそうに微笑んで、
「ありがとう、私も秀ちゃんが好き。」
と答えた。
 ほんの少しの間見つめあってから、秀がゆりの肩に両手を置くと、ゆりは静かに目を閉じた。
 秀は自分の唇をゆりの唇にそっと触れた。
 外国映画のキス・シーンのようにはいかなかったが、純情な高校生の二人には、そのくらいで十分だった。
 お互いの感情が絡み合い、精神的には完璧なアンサンブルで甘いハーモニーを奏でていた。

 しかし、次の瞬間、背後に人の気配を感じ、二人はとっさに体を離した。
 近所に住んでいるのであろう、4〜5人の小学生ぐらいの子供たちがワイワイと騒ぎながら公園に入ってきたのだ。
 二人のそれまでの行動を見られていたようではなかったが、秀とゆりは何か悪い事でもしたように、小走りにその場を立ち去った。
 20メートルほど走っただろうか、秀とゆりは立ち止まって顔を見合わせた。
 秀はポリポリと頭を掻き、ゆりはペロッと舌を出してお茶目に笑った。
「帰ろうか。」
 秀が手を差し出すと、ゆりは軽くうなずいて、手をつないだ。
 沈み行く夕日に向かって、寄り添うように歩く二人の後ろから、二つの長い影法師が、そっと見守るようについて行った。

             


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