第5章 白雲編

         10.サマー・ブリーズ(2)

 亀戸駅の北口に出ると、ロータリーになっており、バスの発着所に4〜5路線のバスが、ゆったりと出たり入ったりしている。
 秀が子供の頃は、都内の道路という道路に都電の線路が四方八方にはりめぐらされていた。砂町に行くのにも、必ず都電を使ったものだった。
 しかし、2年前の昭和47年の秋に都電はほとんどの路線が廃止となり、その運行は都バスへと移行していた。
 砂町方面へと通じる都電も廃止されていたので、秀とゆりは南砂町方面へ行くバスの路線を探した。
「面倒だから、タクシーに乗っちゃおうか。」
 秀が言うと、ゆりは首を横に振った。
「そんな、タクシーなんてもったいないわ。ほら、あそこの路線でいいんじゃないかしら。」
 秀はゆりの、気取らないこんな部分にずいぶん救われていた。
 そもそも今日の出先をどこにするか電話で相談した時も、秀としてはいくらか格好をつけようとして、都内の有名なプールとか、房総の海岸等を候補に挙げたのだが、ゆりは秀が冗談で言った「砂町のプール」がいいと言ったのだ。
 小学生の頃、同じ団地内に住んでいたという事もあってか、ゆりは秀とは、少なくとも物質的な価値観は近いようだが、これは意外と大事なことではないだろうか。
 若いうちは、男はどうしても女の子の前で見栄を張ってしまうものだが、逢う回数を重ねるごとに、ゆりの方がより自然体に振るまい、秀が気張らずにすむように接してくれるようになっていた。
 食事代も電車賃も、今年の初詣あたりからは、ゆりの方からきちんと割り勘にするように言い出すようになった。
 世間一般の尺度から見て、秀は高校三年の男子としては、極めて幼くて頼りない部類に入るはずなのだが、ゆりは秀に対して「もっとしっかりしてよ」などとプレッシャーをかけるような事はしない女の子だった。
 だから秀は、ゆりといる時には必要以上に気張らずに済んでいるのだが、それでも「デート」の時には、男がリーダーシップを取らなければ、という気負いが生じる。それが少々間違った方向に走り「タクシーを使おうか」などと言ってしまったが、ゆりがバスの発着所を指差すのに内心ほっとして、江東区の南方面行きの列に並んだ。

 やがて亀戸始発のワンマン・バスが停留所に入ってきて、入り口の扉が開く。20人ほどの列の最後尾だった二人が車内に乗り込んだ時には、座席はほとんど埋まっていたので、出口付近の位置に並んで立った。
 テープによる女性の声のアナウンスの後、ゆっくりとバスが動き出した。
 ゆりは天井と床をつなぐパイプに、秀はつり革につかまった。
「平日なのにけっこう混むんだね。」
「そうね、天気がいいからかしら。」
 などと会話しながら、秀は時々ゆりの横顔を見た。ゆりも話の区切り区切りに秀の方を向いた。
 バスや電車の中でなければありえないような至近距離に、ゆりがいる。
 時折バスが大きく揺れて、ゆりと肩や腕がふれあうたびに、秀の胸は高鳴るのだった。

             


トップ・ページに戻る