35.地平線の彼方に(2)

 5月に入っても、秀の受験方針は定まらなかった。とにかく、それまであまりにも勉強をサボりすぎていたため、学力不足に対する認識が、ほとんどマヒしていたと言っていい。
 それは丈や浩二も同様だったようだ。「ハカセ」の次郎だけが、しっかりと足を地に着けて日々の生活を送っていた。
 秀は夜、自室で机に向かっていても、すぐにノートに曲目表や、架空のレコード・ジャケット・デザインなどを落書きし始めたりして、まったく勉強がはかどらなかった。
 難易度の高い国立大学は最初からあきらめていたので、私立大学の受験をするには、国語、英語と、もうひとつ社会科から科目を選択すればよかったが、世界史をとるのか、日本史をとるのか、それすらまだ決めていなかった。

 そんな状況の中、T.A.D.のメンバー四人は、毎週日曜日には、高校のブラスバンド練習室に集まって、6月15日のコンサートに向けて練習した。
 会場となる音楽室は、新学期が始まってすぐに、使用許可申請を出して、しっかりと押さえてある。
 機材も、次郎がスピーカー・ボックスを自作した「OFFICE-B400」(実際は50〜60W程度の出力だったであろうが)の出現によって、一気に充実した。
 コンサート当日には、去年の文化祭の時と同様、次郎が他校の友達から120Wのパールのギター・アンプを借りてきてくれるはずであった。
 これに秀の35Wエーストーンと、浩二、丈が所有の20Wエーストーンが2台。
 さらにドラム・セットはツイン・バス・ドラムにするのだから、この頃の高校生バンドの機材としては、なかなか立派なものであろう。
 歌が入らないので、ヴォーカル・アンプがいらないのも幸いした。
 厳密にいえは「スカイラブ」でコーラスが入るのだが、その一曲のためにヴォーカル・アンプを用意するほど、高校生に余裕はない。
 今のところ、ドン・ウイルソンの歌う「悲しき街角」や「ジャンバラヤ」はレパートリーに入っていなかったし、6月15日のコンサートが終われば、メンバー全員本格的な受験生活に入り、事実上バンド活動は停止するのである。
 これ以上金をかける理由はなかった。

 四人で話し合って決めた、コンサート当日の曲目の内訳は、'72〜'73年のノーキー時代と’70〜’71年のジェリー時代を比較して、4:3ほどの割り合いであった。
 去年ダイナミックスを見てから、ジェリー・マギーの影響がジワジワと浸透し、T.A.D.のレパートリーが増える事は、すなわちジェリー時代のナンバーが増える事であった。
 ノーキー時代のナンバーは、'60年代のスタイルでコピーしていた物を、’72〜’73年のスタイルに手直しするだけで、曲数はほとんど増えていない。かろうじて「スカイラブ」あたりが加わった程度である。

 次郎以外の三人は「バンド活動の合間に受験勉強」をして過ごし、5月が通り過ぎて6月に入った。
 いよいよ高校生活の記念ともいうべきコンサートの当日が近づいてきた。


             


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