23.雲の上で(1)

 葉山次郎をベーシストに迎えての新生T.A.D.の船出は、次郎の予想以上のプレイによって、順調な滑り出しとなった。
 とにかく、メンバー全員がベンチャーズに入れ込んでおり、しかも四つのパートを、各々が情熱と責任をもって担当しているのであるから、事前に曲目さえ決めておけば、バンド練習の時には「せーの」で演奏が成り立ってしまう。
 四人は初の音合わせ以来、特別な用事がない限り、日曜日ごとに高校のブラスバンド練習室に集まって、音を出した。
 一人が来られなくても、三人で練習した。二人来られなくても、二人でトレーニングした。
 あと二ヶ月もすると年度が変わり、四人とも受験生となってしまう。好きな事を存分にできるのも今のうちだ、という気持ちも、情熱に拍車をかけていた。
 メンバーで集まって音を出す事を、丈が「ジャンツカ」と表現したが、いつしか全員それを使うようになっていた。
「おい、今日の放課後、ジャンツカやろうぜ!」
という感じだ。
 「ジャンツカ」やった後は、柏駅周辺の「カレーのボンベイ」か「ホワイト餃子」あるいは「中華と定食の仲屋」「日本そばの日立庵」といったところで、雑談しながら食事をするのも、楽しみの一つだった。
 練習の回数を重ねるごとに、次郎はベースのフレーズをより細かくコピーしてきて、見る見るうちに、ボブ・ボーグルのスタイルを身につけていった。
 ジェリー・マギーに憧れてベンチャーズ・ファンになった次郎ではあったが、
「やってみて初めてわかったけど、ベースはおもしろい」
と言って、今ではすっかりベーシストとしての姿が板についている。
 高校生としては凄腕の丈のドラム、ドン・ウィルソンのスタイルに半端でなく入れ込んでいる浩二のカッティング、そしてめきめき腕を上げていく次郎のベースに乗っかってリード・ギターを弾く時、秀はこの上ない幸せを感じるのであった。

 2月の半ば、新メンバーでの演奏もかなりこなれてきた。 秀は、バンド活動の記録、あるいは記念になるものを、何か残しておきたかった。
 そこで考えたのが「スタジオ録音盤」の制作だった。
「そろそろ俺たちも、スタジオ盤作らないか。」
 秀の提案に、丈も浩二も次郎も、もろ手を上げて賛成した。特に、オーディオに詳しく、レコーディングにも興味のあった浩二などは、
「スタジオ録音、一度やってみたかったんだよ。」
と、ニコニコ顔であった。
 もちろん、レコード製作までは手が出ないので、ただのカセット・テープだ。
 しかし、録音には宮田君のデンスケと、丈や浩二のブラスバンドの先輩にミキサーを借りて、ステレオ録音にする予定であった。
 普段、練習をモノラルのテレコで録音するのとは、ちょっと格が違うわけである。
 60分のカセット・テープを使用するとして、片面に10曲前後は入る。両面で20曲前後、それはちょうど現在のT.A.D.のレパートリー数と一致していた。

 録音は2月最後の日曜日に行なわれることになったが、その一週間前の日曜日、いつものように練習したあと、四人は仲屋に寄って、食事をしながら録音の段取りを相談した。
 宮田君にはデンスケを借りるのに了解は取ってあり、当日、家の近い丈と浩二が取りに行く。
 マイク数本とミキサーは、ブラスバンドOBの小田さんという人から借りることになり、これは丈と秀が前日の土曜日に、その人の家を訪ねる。
 T.A.D.には、ベース・アンプがないので、これは秀が軽音楽部の部長となっていた小和田に交渉し、借りることになった。
 あとは曲目と曲順だが、これを決めるのが一番楽しかった。全員で秀が書き出した曲目リストをながめながら、ああでもない、こうでもないと、意見を出し合う。
 この時には、’70年ライヴから「ハワイ・ファイヴ・オー」や、'71年ライヴの「ハートに灯をつけて」などもレパートリーに加わっており、ノーキー・スタイルの曲とジェリー・スタイルの曲のバランスに気を配りながら、正式な曲順を決めた。

 秀はこの録音には、安定した音が出せるレスポールを全曲で使おうと思っていた。
 練習の度にテレキャスターと、とっかえひっかえ試してみたが、この時点での秀にとって、テレキャスターの音は真っ正直すぎた。
 ファズをつないで'72年のノーキーのような音に挑戦もしてみたが、全然イメージ通りの音にならないばかりか、やたらとハウリングを起こして、使い物にならない。
 せっかく苦労して手に入れた赤いテレキャスターではあったが、今ではすっかりレスポールのスペア・ギターの地位に甘んじてしまっていた。


             


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