9.滑走路(1)

 1973年の秋も深まり、11月に入った。7月に初めてベンチャーズを見てから、アルバイト、赤いテレキャスターの購入、メル・テイラーとダイナミックス公演、文化祭コンサート、ハード・ロックとの遭遇と、思い起こせば走馬灯のように頭の中を色々な出来事が駆けめぐる。
 コンサート・ツアーを終えたベンチャーズの帰国を一つの節目と考えれば、この年の「ベンチャーズ・シーズン」は、葉山次郎のベース転向によるT.A.D.参加表明によって、秀にとってはこの上ない締めくくりを迎えた事となった。

 暦の上ではこの年もまだ2ヶ月ほど残っていたが、ベンチャーズの来日が一年のハイライトとなる生活を送るファンにとっては、意識の中ではすでに「次のシーズン」に入っていた。
 次郎の加入によって、T.A.D.の「フィックス・グループ化」への希望が湧いた秀は、10月中にかなり気を奪われたハード・ロックのレコードやテープは棚にしまい込み、再びベンチャーズ・ナンバーの研究に戻った。
 コピーをしなおすと、その都度それまでの間違いや勘違いが発見され、ノーキーやジェリーの奥の深さには、底知れない物があった。
 それまでに単音で弾いていた部分が実は和音であったり、その和音も単純な3度のハーモナイズではなく、9thの音を使って緊張感を出していたりと、とにかく隠し味がきいている。
 もっともこの頃の秀にはたいした音楽的知識はなく、3度だの9thだのという事は、後々に意識した事である。その時はひたすらに「自分なりに聴こえた通りに」プレイするだけであった。

 葉山次郎は、毎日自宅で、ギターの3〜6弦を使って、ベース・パートのコピーに精を出しているようである。いい意味での完全主義者なので、秀も丈も浩二も、きっといい結果が出ると予測していた。
 次郎は「きちんとベースのフレーズを覚えるまでは」と、年内のリハーサルを拒否した。これでなおさら、三人の期待は高まるのであった。

 11月中旬になった。
 秀たちの高校では、毎年この時期に、2年生が修学旅行に出かける事になっている。
 自主性を重んじる校風を受けて、行く先からスケジュールまでのほとんどが、生徒によって構成される実行委員会に委ねられていた。
 この年は全5日間の行程のうち、最初の2日間が山陰コース組と四国コース組に分かれ、3日目から京都で合流するという、変則的なプログラムが組まれた。
 山陰をとるか、四国をとるかは、参加する生徒個々人の、全くの自由選択であったが、T.A.D.の四人もきれいに半分に分かれた。
 秀と丈が山陰コースをとったのに対し、浩二と次郎は四国コースを選んだのだ。同じベンチャーズ・ファンでも、その他の趣味や好みは、まったく違うのであった。

 出発の朝、志垣恒一とともに東京駅の集合場所に着くと、そこは秀の高校の2年生の面々でごった返していた。
 秀はクラスが違う志垣と別れると、京都での行動を共にする同じ班の、宮地、尾崎、住江と雑談しながら出発の時間を待った。
 実は、東海道新幹線開通8年目にして、秀はこの時が新幹線初体験なのであった。
 東京の中学では修学旅行が3年生で行くのに対し、引っ越し先の柏の中学では、すでに2年生の年に行っており、秀は新幹線はおろか、あの「大阪万博」をも逃してしまっている訳であった。
 
 日程前半の山陰もさることながら、後半の京都見物に秀は大きな期待を抱いていた。やはり、ベンチャーズの大ヒット曲「京都の恋」や「京都慕情」から連想されるイメージに、相当影響されていたのであろう。