4.決断(1)

 「クラシカル・ガス」に手を染めた秀は、他の'71年収録のナンバーも弾いてみたいという欲が出た。ギターはとりあえず丈に借りているグレコのEG360がある。
 すでに文化祭の時点で「輝く星座」や「黒くぬれ」などは、'71年と'72年をミックスしたような演奏であったが、もっと完璧にジェリー・マギーのスタイルを追求してみたいと思い始めていた。
 しかし実際は、ジェリーのプレイ・スタイルは、おいそれとモノにできるような代物ではなく、全くコピーになっていない、雰囲気だけの世界を楽しむ時期が、しばらく続くことになる。

 10月、11月は、秋の文化祭シーズンである。9月半ばの、秀の高校の文化祭は比較的早い方であった。
 秀は休日に丈と誘い合わせては、他の高校や、あるいは近くの大学の文化祭や学園祭を見学に行った。
 印象に残っているのは、石浜恵美子や彼女の友人と行った足立区の高校の文化祭である。
 恵美子のボーイ・フレンドがその高校でバンドをやっていて、そのメンバーがT.A.D.の文化祭のステージを見に来てくれたというので、お礼の意味も込めて足を運んだのだ。
 他の出し物には目もくれず、秀と丈は軽音楽クラブのブースに入り浸った。さすがにベンチャーズ・タイプのエレキ・インスト・バンドはいなかったが、当時流行のロックのコピー・バンドを見るのもなかなか楽しかった。
 恵美子のボーイ・フレンドはギタリストで、ローリング・ストーンズの「ホンキー・トンク・ウィメン」等をカバーしていた。完全なコピーとは言い難い演奏だったが、自分たちの技量なりの、無理のないプレイで楽しんでいるところに好感が持てた。
 圧巻は、特別に体育館で演奏していたディープ・パープルのコピー・バンドであった。
 ディープ・パープルは’72年の来日以来、そのライヴ・レコードの発表とも相まって、人気が大爆発し、それまでアマチュア・バンドに圧倒的支持を得ていたクリーム、ローリング・ストーンズ、グランド・ファンク・レイルロード等を、あっという間に駆逐してしまった。まさにこの時期のパープルは、1960年代中期のベンチャーズと同じような地位を、日本において確立したと言える。
         
ディープ・パープル
ライヴ・イン・ジャパン

 この高校のディープ・パープル・カバー・バンドは、特にキーボードとドラムの腕前が秀逸で、まるでプロのコンサートを見ているようであった。
 こういう人がベンチャーズをコピーしたら、いったいどんなプレイをするのだろう、などという、普通では考えられない見方をする秀ではあったが、ベンチャーズ以外の音楽を、久々に心から楽しんだ。
 校内随一のドラマーと噂される丈も、このバンドのドラマーには「うまいなあ」と感心する事しきりであった。

 こうした日々を過ごすうちに、秀の中にも若干の「ロック魂」が芽生えてきたようであった。
 外で色々なバンドを見た事によって、知らず知らずのうちに刺激と影響を受けていたのだろう。高校入学以来、ベンチャーズ以外の音楽にはほとんど目もくれなかった秀が、ローリング・ストーンズのLPを買ってきたり、丈経由でディープ・パープルやシカゴのテープを仕入れたり、あるいはクラスの友人からイエスのアルバムを借りて聴いたりするようになった。

グランド・ファンク・レイルロード

 これは、石浜恵美子のボーイ・フレンドのバンドの演奏を聴いて「何やら楽しそうだな」と思ったのが大きかった。
 ディープ・パープルのカバー・バンドを見て「俺もやってみよう」とは、さすがに思えなかったが、ストーンズやグランド・ファンクのコピー・バンドを見て「これなら俺にも出来そうだな」と思ってしまったのである。