第1章 流浪編

         3.アパッチの矢が飛んだ(3)

「あの人、ベンチャーズが好きなのかな。」
 秀は歌のバックをつけるそのギタリストを身じろぎもせずに、じっと見ていた。
 しかし、ベンチャーズが好きなら、なぜこのような「うたごえサークル」に所属しているのだろう。ギター・プレイもベンチャーズの影響をまったく感じさせないものだ。何もかも、謎の人物である。
 そんな事を考えている時、横にいた上級生らしい男が話しかけてきた。
「うたごえに興味はありますか?」
 その声でふと我にかえった秀は、びっくりして相手の顔を見た。おそらく「よもぎ」の部員で、新入生の入部勧誘を担当しているのだろう。端正な顔つきだが、語り口がソフトで、感じの悪くない人物だった。
 だが、路上のセールスや宗教の勧誘と一緒で、どうしてもこんな時は無条件に腰が引けてしまう。うっかりした返事をすると、興味もない合唱団に入部させられる羽目に陥ってしまうだろう。
「い、いえ、歌にはそんなに興味ないです。なんとなく見ていただけなんで。」
 すると、相手は一応食い下がってくる。
「僕も最初はそうだったんだけど、やってみると結構楽しいですよ。」
 秀は極端に警戒しながらも、とりあえず多少の事は聞いておこうと思った。
「僕は演奏の方に興味があって、ギターが弾きたいんですよ。」
 すると勧誘担当部員はニッコリと笑って大きくうなずき、
「うちはバック・バンドの部門もあるから、ギターだってガンガン弾けますよ。」
 そう言われて秀は入部を断る次の言葉につまった。うたごえ合唱団のバック・バンドなど、やってみたいとも思っていない。秀の興味はあくまで、さっき「アパッチ」の一節を弾いたギタリストに集中している。
 秀は勧誘部員の話の流れを無視するかのように、聞いてみた。
「ねえ、今、後ろでギター弾いている人、さっき曲と曲の間にベンチャーズの曲をちょこっと弾いていたんだけど、ベンチャーズやってる人なんですか?」
 そんな問いに対し、勧誘担当部員はちょっと首をかしげて、
「さあ、よくわからないけど、あいつだったらベンチャーズでもビートルズでも、なんでもできるんじゃないかなあ。でも、あいつは本当はベーシストなんだよ。」
と答えた。
「へえ、ベーシストなのに、あんなにギターうまいんだ。」
「ドラムだってかなりうまいよ。なんでもできちゃうんだよ。」
 そうこうしているうちに、昼休みも終わりの時間が近づき「合唱団よもぎ」の「うたう会」とやらは、お開きとなった。
 秀に話しかけていた勧誘担当部員は、
「無理にとは言わないけど、一度気軽に遊びに来てみて下さい。地下女子ホールの真ん中辺に部室があるから。僕、井崎といいます。」
 そう言って軽く手を振ると、アンプやスピーカーの撤収を手伝いに、秀の前を去っていった。
 秀は午後の授業の間も、帰りの電車の中も、そして家に帰ってからも、ずっと今日の昼休みの「合唱団よもぎ」の演奏風景を思い返していた。
 その夜、秀は初めてNHKラジオのフランス語講座を聞き逃した。


             


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